古い歴史を誇る香辛料
香辛料の歴史は古く、人類が誕生し、狩猟を生活の手段として肉や魚を食べはじめたときから、防腐剤や調味料、あるいは医薬として使用されていたと推定されています。なかでも香辛料は防腐剤として大きな役割を果たしていました。食べ物の保存方法がない時代には、狩りで得た肉や魚をいかに長く食べつなぐかが大きな問題でした。そこで、利用されていたのが香辛料というわけです。
こうした香辛料の防腐機能を利用した例で有名なものに、古代エジプトにおけるピラミッドのミイラの保存があります。紀元前4000年頃から高位高官の人たちはミイラにして死後腐らないように保存されるようになり、その防腐剤として当初は「アニス」「クミン」が利用されていました。その後、「シナモン」「カシア」がエジプトに輸入されるようになり、この2種類の香辛料が主要防腐剤として使われました。
さまざまな目的に利用されていた香辛料
エジプトでは防腐剤としてだけではなく王たちの生活、儀式などにも香辛料は利用されていました。太陽には26種類、月には28種類もの香辛料を混合して捧げていたと伝えられています。また、エジプトと同じようにメソポタミアでも、香辛料を使って軟膏、香料、神聖な油も作られるなど、すでに利用されていました。
紀元前1500年ごろのエジプト18代王朝の女王ハトシェプストが残した記録によると、5隻の船を紅海南部アデン湾の両岸地域に送り、「香やアイ・コスメティック(目のまわりを美しくする化粧粉)などといっしょに、神のかぐわしい樹、山ほどの没薬樹脂、新鮮な没薬の樹、シナモンのなどを大量に積んで帰ってきた」と記されています。
このシナモンの樹は、上流婦人たちが身体につける香料として利用し、かなり大量のシナモンを必要としたため、遠くはインド、インドネシア、中国からも運ばれていました。
にんにくのおかげでピラミッドは完成した?
古代エジプト文明の象徴ともいえるピラミッドですが、その建設に、にんにくが一役買っていたというエピソードもあります。にんにくは玉ねぎと並んでもっとも古くから栽培されている植物で、紀元前5000年前にはペルシア地方で、すでに栽培されていたようです。そして、エジプトでは紀元前3200年~2780年のエジプト王朝時代から玉ねぎとともに食用とされていたことが壁面の中に見られ、よく知られるツタンカーメンの墓にもにんにくの球根が発見されています。
このにんにくと玉ねぎは、ピラミッドを作る労働者たちの精力の消耗を補うために食べられたといわれています。歴史の父といわれるギリシアのヘロドタス(前484~425年)によると、ピラミッド完成までには毎日20万人の労働者が絶えず働き、3か月ごとに新しいグループと交替して約20年間かかるとあります。しかも、炎天下での重労働であり、体力の消耗は想像を絶するものだったのでしょう。そこで、精力の増進に効果があるとされる、にんにくや玉ねぎを献立の中心にしたのではないでしょうか。
(諸説あります。)
中国では香薬として利用されていた
中国でも、エジプトと同じように当初は、食用よりは薬として香辛料を利用していました。たとえば、漢の時代には宮廷の官吏が、天子に政事を奏上する時に、一本のクローブを口に含んで口臭を消し、息を清めるということを行なっていました。いわゆる香薬としてクローブを用いていたのです。
また、紀元前2500年頃に、香辛料を加えた香酒や香飯を神に祭っていたという事実もあるなど、現在とは多少異なった方法で利用されていたようです。
香辛料を求めて海を渡った大航海時代
古代には主に薬用として重宝されていた香辛料は、中世に入ると食用としての利用度が高まります。とくに肉食中心のヨーロッパ人によっては、香辛料の中でもコショウがもっとも需要が多く、遥か遠く東洋のコショウを求めて進出するようになります。その価値は驚くほど高く、銀1袋に同じ量のコショウ袋が交換されたほどの希少価値を誇っていました。
貴重なコショウをはじめとしたスパイスを入手するため、さらに13世紀にマルコポーロが著した「東方見聞録」のジパング(日本)の純金や中国の絹織物など“東洋の輝かしい財宝”を手に入れようという2つの理由から、15世紀にヨーロッパの列国は、東洋へと向かう大航海時代を迎えます。
1492年にはスペイン女王・イザベルの賛同を得て、コロンブスが西回りの航海で必ずインドやモルッカ諸島(現在のインドネシア、マレーシア)に到着すると判断し、ジパングの金や絹、そして香辛料を求めて第一回目の航海に出発。その結果、アメリカ大陸の発見にむすびついたのは周知の通りです。1498年にはポルトガルの後押しを受けたバスコ・ダ・ガマがアフリカの喜望峰を回航してインドに到着し、マルコポーロが「東方見聞録」で記述した「コショウ海岸」の現地調査を実現しました。
そして、約20年後の1520年にはマゼランがマゼラン海峡を発見、通過し、さらに太平洋を横断してフィリピンのセブ島へと到着。地球がまるいことを実証したのです。セブ島でマゼランが死んでからは、残されたわずかな船員たちにより、香辛料がスペインに運ばれ、莫大な利益を生みました。
もちろん、この快挙によって香辛料の宝庫である東南アジアへのヨーロッパ各国の進出がはじまり、以前よりも容易に香辛料が手に入るようになり、人々の生活により深く関わるようになります。しかし、一方ではポルトガル、スペイン、イギリスなどにより、アジアの香辛料の争奪・利権をめぐる「スパイス戦争」も起っています。国家間で熾烈な闘いをしたということは、それだけ香辛料がもたらす利益が莫大だったという証でもあります。
日本における香辛料の歴史
香辛料が発達した理由には、広い国土の国々では食料を運ぶ必要があり、その際に腐りかけた肉や強い臭いを持つ肉に香りをつけたり、南方では暑さからくる食欲の減退を防いだりすることが挙げられます。その点、気候風土に恵まれた日本では、新鮮な海の幸や山の幸を容易に入手できたので、香りづけや消臭効果を求める必要がほとんどありませんでした。
素材本来の持ち味を活かす調理方法や、かつおぶし、こんぶ、しいたけの味に代表されるアミノ酸や核酸系の旨味によって、日本人の繊細な味覚は培われてきました。
ただ、日本では主に魚肉を食べていたので、魚にまつわる独自の香辛料も古くからあります。中でもしょうが、わさび、山椒、にんにくなどが日本の代表的な香辛料といえるでしょう。「古事記」の中にはしょうが、もしくは山椒を指す「ハジカミ」や蒜(にんにく)の名が登場しており、「東大寺正倉院文書」の中の正税帳(734年)には胡麻子(ごま)が、「本草和名」(918年)には山葵(わさび)、「延喜式」(927年)では芥子(からし)などの名が出ています。このことからも、これら香辛料がかなり古くから栽培され、利用されていたことがわかります。
日本における外来産の香辛料
外来の香辛料が日本に渡来したのは聖武天皇(724年~749年)の代といわれ、正倉院の御物の中にコショウやクローブ、シナモンが納められています。聖武天皇の時代には4回の遣唐使が中国を訪れていますが、その人々が持ち帰ったのではないかと推測されています。
その後、元や明との交易、ポルトガル人やスペイン人の来航、東南アジアとの貿易、御朱印船貿易によってコショウ、クローブ、唐がらしなどの外来の香辛料は渡来しています。
江戸時代の鎖国によって一時、香辛料の輸入も途絶えていましたが、明治時代になってからは外来の香辛料によって、新たな食文化が形成されます。その代表はなんといってもカレーライスでしょう。明治5年(1872年)に刊行された「西洋料理指南」や「西洋料理通」にはカレーの作り方が紹介されています。しかし、当時のカレーライスは高級西洋料理で、一般の人々が口にすることはありませんでした。日本でカレーが普及したのは、明治38年にハチ食品(当時:大和屋)二代目の今村弥兵衛が、当時日本で初めてとなる国産カレー粉の開発を行ったことがきっかけです。
大阪で薬種問屋を営んでいた今村弥兵衛がある日、漢方薬をしまってある蔵に入ったところ、なにやら良い匂いが‥。その香りが、当時海外から輸入されていたカレーの匂いと似ていることに気付き、良い匂いのする柳行李をあけるとウコンや唐辛子といった香辛料が入っていた事をきっかけに、弥兵衛はカレー粉製造に勤しみ、当時、日本初の国産カレー粉を「蜂カレー」と名づけて発売しました。
その後、カレーは徐々に庶民の間に広がり、大正時代に入ると急速に普及して洋食の代表的な存在となるのです。
ただし、コショウは別にして、クローブ、ナツメグ、ローレルなどの香辛料が一般家庭で使われるのは、ずっと後のことで、昭和40年代までは、食卓はおろか商品として店頭に陳列されることさえ少ない状況でした。しかし、今では家庭でも本格的なカレーやシチュウを作る人も増え、さまざまな香辛料が利用されています。